キャリア官僚から政治家へ…長谷川憲正

キャリア官僚から政治家へ・・長谷川憲正

親が政治家の場合には、親の秘書として行動してから親が引退する時に地盤をそのまま受け継いで選挙へ出る。今では2世議員など珍しい存在ではなくなってしまいましたが、政治家の親(ほとんど父親)を持つ場合は大学を卒業して、一般企業(それもかなりの大会社)である程度の期間は企業人として勤務した後に、親の秘書として選挙区に顔つなぎをするために活動したり、親からの地盤を引き継ぎます。

親が国会議員ではない場合に政治家を目指す場合の王道ルートは、キャリア官僚を経てキャリア官僚から政治家への転進が政治家としての王道ルートです。もちろんキャリア官僚から政治家以外にも、松下政経塾などを経てから選挙に出るという道もあります。ほかにも政党が公募したときに一般公募から出馬することもできますが、地盤が無くて政治家になりたいという気持ちがあるならば、まずは官僚になることが出馬する道としては確実だといえるでしょう。

長谷川憲正

参議院議員として2004年7月26日から2010年7月25日まで参議議員として活動した長谷川憲正さんは、キャリア官僚から政治家へなりました。郵政省の官僚からフィンランド大使を経て、2004年に自由民主党から参議院へ出馬して当選しました。参議院議員としては1期務めています。郵政省の官僚だった関係からでしょうか。全国郵便局長会の顧問なので、定期総会に総務大臣とともに招かれています。

キャリア官僚らしくもちろん東京大学法学部出身です。東京大学法学部を卒業して国家公務員Ⅰ種採用試験に合格して郵政省に入っているので、おそらく子供の頃から神童だったのでしょう。キャリア官僚になるには、やはり東大がとても有利です。国家公務員I種には群を抜いて東大が多くなっていて、半分以上いや三分の二は東大ではないでしょうか。通常、中央官庁では大学の卒業年次を聞かれることはありますが、大学を聞かれることはほとんどありません。周囲がほとんど東大だからです。東大法学部という肩書きはまさにブランドで、その学歴を手にすれば中央官庁で出世することはできないというほどの肩書です。今でこそ、官僚への道よりも外資系などへ行くことが人気が高くなっていますが、長谷川憲正さんが東大に在籍してい次代は官僚への切符を手にするためには、なんとしても手にしたい肩書きでした。

長谷川憲正:経歴~選挙に出るまで

昭和36年(1961年)3月
埼玉県立浦和高等学校卒業:埼玉県では名門男子校。もちろんダントツの偏差値の学校で偏差値72とも。東京大学への入学が埼玉県では1番。
昭和42年(1967年)3月
東京大学法学部卒業:キャリア官僚としてのブランドを獲得。
昭和42年(1967年)4月
郵政省入省:郵務局総務課長の時に「ふるさと切手」の発行を手がけ、郵便局長、郵政審議官などを勤めています。
平成11年(1999年)7月
郵政省退職
平成12年(2000年)6月
フィンランド大使

政治家として・・

フィンランド大使を経てから選挙に出ますが、どうして政治家になったのか?!という点ですが、インタビューではフィンランド大使として着任している時にフィンランドの暮らし生活を見て、女性が働ける環境が整っていることや、働きながら育児をするという社会の制度がとても整っていることをみたこともあります。フィンランドの社会保障の財源は税金ですが、国民が減税を望むことはなく公平に税金の恩恵を受けていることを目にしていたことに影響を受けました。

ちょうど長谷川氏が選挙に出ようとしていた頃は、第二次小泉内閣の時期で郵政民営化へ大きく動いていた時期です。郵政省の出身として民営化といいながら、郵便局つぶしの仕組みを作ろうとしていたことを、国民のみなさまに分かってもらうために政治の場へ出ようとしたことが理由にあげられます。

そして、フィンランドは戦後に日本の教育の仕組みを手本にして、追いつくようにそして追い越せるようにと教育制度を作ろうとしました。とフィンランドの教育大臣から言われたそうです。フィンランドが日本を手本にして作り上げた教育制度と社会制度をみて、もう一度日本は原点に戻り、立派な国家を作って次世代へバトンを渡さなくてはならないとおもったそうです。このふたつの理由で選挙へ平成16年参議院議員への選挙出馬となりました。

長谷川憲正:選挙への出馬

平成16年(2004年)7月
第20回参議院議員通常選挙で比例区より出馬。(自由民主党公認)282,919票を獲得し自由民主党第三位で初当選。
平成17年(2005年)8月
国民新党の結党に参画します。国民新党の結党は8月17日。(郵政民営化関連法案に反対した議員が中心)長谷川氏は田中康夫氏代表尾の新党日本へ。
平成17年(2005年)8月8日
参議院本会議で、郵政民政化法案が否決。郵政解散といわれる衆議院解散。
平成17年(2005年)9月11日
新党日本に離党届を提出した翌日の12日に国民新党へ復党する。(新党互助会との批判を受ける)
平成17年(2005年)10月
自由民主党から除名処分となる。
平成21年(2009年)9月18日
鳩山由紀夫内閣で、総務大臣政務官に就任。
平成22年(2010年)7月11日
第22回参議院議員通常選挙で国民新党の比例区より出馬。落選。
平成22年(2010年)9月21日
総務大臣政務官を退任。

国民新党と新党日本

郵政民政化法案に反対して、郵政解散は政治が「小泉劇場」と言われるほどとても賑やかな選挙戦となりました。郵政法案に反対した議員の選挙区へ、刺客候補といわれる候補が落下傘のように降りてきて激しい選挙戦となりました。この時に多くの自民党候補者が擁立されましたが、その時に当選した人たちを「小泉チルドレン」とまで呼ばれるほどの大勢の人数でした。

郵政民営化法案に激しく反対していた亀井静香氏や綿貫民輔氏たちを中心とした新党が結成されました。それが「国民新党」です。もちろん長谷川憲正氏も結党に参画していましたが、どうして田中康夫氏が代表を務める「新党日本」へ行ったでしょうか。

国民新党は8月24日には国会議員が6名いましたが、新党日本の国会議員は4名でした。公職選挙法の上で必要な人数にあと1人足りませんでした。そのため、長谷川憲正氏は国民新党のメンバーでしたが、期日限定で新党日本へ入党して政党要件を満たしてから9月12日に国民新党へ復党しました。

この期日限定そしてレンタル移籍では?!ということで批判を浴びることになりました。人数が1名足りるか足りないかということで大きく変わります。政見放送の条件も変われば、選挙カーやビラなども変わります。寄付金も政党になれば、労働組合や会社から多額の寄付金を受けることが出来ますが、満たしていない場合は個人からの寄付は150万円まで。政党になると2000万円まで個人からの寄付を受けることが出来ます。そして大きく変わるのが政党交付金が出るか出ないか。ということになります。

国民新党と新党日本は郵政民営化反対という共通の理念があり、結びついていたため9月11日に行われた第44回衆議院議員総選挙では、比例区がお互い重複しないように、4ブロックのみで候補者を擁立して絞り込みました。そして総選挙後は、衆参両院で新党日本と国民新党は統一会派を結成しました。

新党日本との決裂

衆参両院で統一会派を組み、衆議院では無所属の野呂田芳成氏も会派に加わって「国民新党・日本・無所属の会」を結成して、長谷川憲正氏が議員を務める参議院では「国民新党・新党日本の会」を結成しましたが、平成18年(2006年)9月に、首相指名選挙がありましたがその時に新党日本幹事長の荒井広幸議員が綿貫代表に投票しないで、昔からの知り合いの自民党総裁、安倍晋三氏に投票したことで関係がおかしくなりました。

新党日本では党首の田中康夫氏がその当時国会議員ではなく、長野県知事ということもあって首班指名にかんして自主投票と決めていました。国民新党からすると統一会派を組んでいるにもかかわらず自民党総裁に票を入れるのはどういうことだとなり、新党日本代表の田中康夫氏に荒井広幸氏への処分を求めましたが、新党日本からは処分することを断りました。そのため、国民新党は新党日本との統一会派を解消しました。

それ以降、国民新党は「私たちは絶縁しました。ライバルというより敵(かたき)」と痛烈に批判するようになり決裂しました。

新党日本も郵政民営化に反対する立場で、結党されたので

22回参議院議員通常選挙で議席を失う

第22回参議院議員の通常選挙が平成22年(2010年)7月11日に行われました。この参議院選挙では、比例区の現職でもあり全国郵便局長会の事実上の組織内候補者でもある長谷川憲正氏と、元プロ野球選手で元民主党参院議員の江本孟紀、元衆院議員の宮本一三などを国民新党では擁立しました。独自候補者は、東京と福岡に絞り多くの県などでは、選挙協力として民主党や社民党候補者を推薦しましたが、投票結果は長谷川憲正の個人名での得票数は40万6587票とうい結果でした。全体では8位でした。1位から7位までは公明党候補者だったので、全国郵便局長会の集票力を見せ付けるとともに全国郵便局長会も必死に戦った選挙戦だったことを思わせる得票でした。

40万票余りを得ていましたが、国民新党の参院選の比例区では100万票は超えていますが、この選挙では「たちあがれ日本」や「新党改革」といった新党が乱立したこともあって、2パーセント以上の得票を満たすことができずに国民新党が議席の枠を獲得することができず長谷川憲正氏は落選しました。この参議院選挙の結果を受けて、全国郵便局長会は国民新党単独への全面支援を見直すことになり、が国民新党の衰退に拍車をかけることになりました。